12年11月30日 その4
予定では「合月」「千両」「名代一休庵」あたりに寄るつもりだった 食べログでチェックしてね
八丈島は明日葉を練り込んだうどんやそばが有名だから 邪道とは思うんだけど、せっかくだから頂こうって
と言うのも今夜の宿が2食付で 昼食だけが唯一この八丈島で自ら選びうる食事だったわけ
でも背に腹は代えられない いや、お腹と背中がくっつくぞって、空腹のあまり眩暈がしてきたのでね このラーメン屋に飛び込んだのだが
これが失敗、大失敗 スープの温度が人肌だもん ふーふーなんて必要なくて、猫舌の幼女でも一気飲みできるレベル なにしろ注文したのが11:57で、出てきたのが12:00だからね 3分のあいだ、厨房には湯気すら立っていない ポットのお湯を使ったのだろう
この麺も凄かった 半生 硬めとかじゃないの 半生 バッサバサでボッロボロ 口の中に粉が残る
チャーハンはチャーハンでぐっちゃぐちゃのべっちゃべちゃ 厨房で鍋を振った様子もなく、カチャっという炊飯器を閉めた音だけがした 出来合いのものを保温してるのだろう 温度もやはり人肌だった
これで880円だもんなー 離島価格って逃げ言葉じゃ片付けられない気がするんだけど でもまあ店主が入り口でウンコ座りして喫煙してるような店だからね 入ったおれがバカだったな
食 べ ロ グ に ひ ど い こ と 書 い て や る
はい次
この先に黒砂砂丘があるのだが
尋常ならざる悪路と急勾配に原チャリが悲鳴を上げる うまくいかないなー どこからか画像を引っ張ってくる手もあるけど悔しいから次の機会に持ち越そう 次があるのかないのか分からんけど
で、特に見所のない樫立地区をスルーして
八丈島の中心部・大賀郷地区への入り口に迫る 1904年竣工の大坂トンネル この先には絶景が広がっているそうだが
まずはその手前を右折することになる
防衛道路 戦時中、外周道路の寸断に備えて作られた道 主に戦車が通行していた かつては島の北東部まで縦断していたと云われている
1945年3月、硫黄島陥落 悪化する戦況の中、帝国陸軍は本土決戦に備えて八丈島に壕を掘った 小笠原の次はここと、首都防衛の前線基地とするため島の要塞化を目論んだわけだ 第67旅団戦時司令部壕 通称・鉄壁山 動員されたのは2万人もの兵士と朝鮮人労働者 その規模は4階層とも8階層とも云われ、又、本体の延長は1km 島内の全ての地下陣地、地下要塞を含めると総延長は実に63kmにも及んだ 本土を護るための最後の砦としてその時を待っていたんだね が、しかし 米軍は硫黄島を制圧したあと沖縄を目指した ここが戦場となることはなかった そのため鉄壁山は今も朽ち果てることなく、その偉容を誇っているのだそうだ そう 今回のぶらりのメインテーマは、その鉄壁山に潜入すること
この防衛道路は司令部壕の入り口へと続く唯一の道 日本男子たるもの、これを進まずして死ねるものか 「男たちの覚悟」をこの目に焼き付けないと
ガビーン
八丈島に人捨穴(姥捨山)があることは知ってたさ でも、余りに悲しい歴史なので意図的に情報を遮断してた それがまさかここにあるなんてなー http://goo.gl/maps/y0eP1
八丈島が流刑地であったことは有名だよね 第一号は宇喜多秀家で、関ヶ原の合戦で敗れた西軍の大将 豊臣秀吉の腹心であることから、徳川家康は彼の謀反をとても恐れていたそうだ その最大級の政敵を流すのだから、ハンパな土地では困る 江戸から287kmも離れ、黒潮の流れが速く、島抜けが困難な八丈島は流刑地として最適だったわけ
その八丈島に流されてくるのは当初は政治犯がほとんどだった インテリだね 彼らは島民にとって知識の源であり江戸の情報源でもあった ゆえに八丈島の人々が流人を積極的に受け容れてきたという側面すらあるのだけど 自ずと多くの罪人が配流されることになる
そこで問題となったのが食料の不足 ここは太平洋の孤島、火山島だからね 風害、塩害、高潮、高温、大雨、虫害、悪疫と、あらゆる苦難が降りかかる 食糧不足は慢性的で、常に栄養の確保が難題となっていた そこへ人口の急激な増加とくれば、島民の生活に打撃を与えること必定 食料の争奪戦は陰惨を極めたそうだ 特にひどかったのが1766年から1770年ごろ 島民の3人に2人が餓死したという記録が残っている 「七人坊主の祟り」が生まれたのもこのころだろう そして島民は命を繋ぐために、やむをえずある暗黙の掟を自らに課すことになる 口減らし 間引きや人減らしもほぼ同義だね その舞台となったのが、ここ、人捨穴なんだって
同様の行為は八丈島のみならず全国で行われていた しかしその多くが「姥捨て」であり、労働力のない老女がその対象だった が、八丈島では事情が異なった 飢饉が本土のそれと比較にならないほど悲惨で、口減らしの対象は老人にとどまらなかった 島人は性別や健康状態を問わず、50歳を過ぎると誰もが自主的にここに入った 以後は決して何も口にすることなく、死が訪れるのをじっと待ち続けたのだそうだ そう、ここは「姥捨て」ではなく「人捨て」穴だった
だからこんな場所にある 山深い森林でもなく、絶壁の岩場でもなく、村落からごくごく近い距離にある 人々は孫子のために二度と戻らないという強い信念のもと、ここへとやってきたんだな ゆえにこんな場所でも人捨穴として機能したんだ だとしたら、なんと悲しい歴史だろう 家族の命を繋ぐために自らを殺すなんて、なんと大きな愛だろう いくら脳みそパラダイスのおれでも、胸が張り裂けそうになるよ
そんな悲しい風習は、1822年、新島からさつまいもが入ってくるまで続いたそうだ 50年! 50年も続く戦争が、災害が、闘病が、収監が、一体どこにあるというのか
八丈島の人々が見た地獄は、あるいは人類最大の不幸だったかも知れない せめてもの救いが、戦場とならなかったことか いずれにせよ、この場所が観光用のパンフレットに載ってない理由がよく分かった そりゃそうだよ 観光客を凹ませてどうする
実際、おれもあの人捨穴を見たとき、なんとも言えない気分になってね 上記のような知識はなくとも、今にも泣き出したいような気持ちになって その胸苦しさはしばらく後を引くことになる
例えばこの先で「無線の路」と「鴨川林道」に分かれるはずで
なのにこれが分からない バイクの通れる道じゃないし靴もふつーのスニーカー
鴨川林道を進めば鉄壁山、第67旅団戦時司令部壕があるはずだが おれはもはや自分がどこにいるのかすら分からなくなってた
遭難
いわゆるひとつの遭難
原チャリに辿り着くまで1時間も山中を彷徨ってしまう 「ここどこー」「そこどこー」と呟きながら
で、ギブアップ 鉄壁山も次回に持ち越し なんかもう、心が保てなかったのよね トホホ
大坂トンネルを出たとこ んー別に大したことないなー 沈んだ気持ちを晴れやかにするくらいの絶景を期待したのに
直射砲台 トンネルを出てすぐ右にある 山側と言ったほうがいいのかな こうして決戦に備えて準備を続けていたんだな 頭が下がる思い
今は塞がれているけど、この先は長い壕が続いている 壕は途中で幾つにも枝分かれして、人捨穴の横にも繋がっているそうな
あああ もう人捨穴は勘弁してくれえええ
気持ちを切り替えたいんだから
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